Dr. Mutsuko Takahashi BLOG

ニューヨーク在住、英文学博士・個人投資家の高橋睦子【Mutsuko Takahashi】です。ブログへのご訪問ありがとうございます。

mutsuko takahashi

ハムレットの To Be, or Not To Be の解釈

以前、ハムレットのセリフ、"To be, or not to be..."について触れたことがありました。こちらです↓

エディプスコンプレックスの文学的応用:『ハムレット』 - Mutsuko Takahashi BLOG

 

ここでは、なるべくわかりやすく、もう少し詳しく見ていきたいと思います。もちろん、解釈は自由です。またこの問題に終わりはありません。あくまでも私の解釈による意見であることは、最初にお断りしておきます。

 

 

翻訳の問題

"To be, or not to be"はいろいろな翻訳がされていますが、有名なのは「生きるべきか死ぬべきか」ですね。翻訳者の方も、かなり悩んでこのようにしたのだろうと推察できます。翻訳って言うのは本当に大変で、もちろん注釈をつけることはできますが、基本的には説明的にならずに、概念を言語化したものをさらに別の言語に翻訳しなくてはならないので、この部分は本当に翻訳者の方が苦労したのだろうなと思います。

 

もちろん、解釈は自由です。ところが解釈が自由だというのはメリットもありますが、デメリットもありますね。自由だからと言って何でもよくなってしまうのでは、それ以上深く掘り下げることができなくなってしまいます。自分の考えにたどり着く行程において、他の人がどう考えるのかっていうのも大事だと思うので、ここでは私の考えをシェアしたいと思います。

 

真実ってなに!?

私が考えるところの『ハムレット』のメインテーマは、「真実」と「そう見えているもの」の問題。そして、この問題に対するハムレットの葛藤です。

 

「真実」と「真実の似姿 (そう見えているもの)」について、詳しく説明します。「真実」って何でしょう!?『ハムレット』を読むにあたって、すでに知っている「真実」の意味では不十分な気がします。英文科の学生や、哲学や心理学に興味がある方、もっと詳しく知りたい方は誰でも、ぜひ「真実」ってなんなのか、ちょっと私と一緒に意味を掘り下げてみましょう。

 

ここでいう「真実」っていうのは、辞書にのっている意味だけで説明できる類のものではないんです。「真実」っていうのは、確実に存在しているが、その在処を確認できないもの。目に見えたり五感でとらえたりすることが出来ない、「真理」という概念のようなものだと思っていただければと思います。

 

いくつか例を挙げます。例えば「三角形の真実」について考えてみましょう。三角形は日常生活に目に見える形で、どこにでも存在していますね。紙に書いてみることも出来ます。立体的なものまで含めれば、おにぎりとか、ピラミッドとか、おでんのこんにゃくとか、一時停止のマークとか。

 

ちょっと一時停止して考えてみてください。それらは確かに三角形だけど、三角形の真実といえるでしょうか!?私はそうは思いません。三角形の真実は、三角形として目に見て確認できる類のものではなく、三角形の概念こそが真実ですね。三角形に関するもので理論化されたものは言語化された時点で「真実そのもの」ではなくて「真実の似姿」であるといえます。例えばピタゴラスの定理とか、高校の数学教師 (ちなみにイケメンだった) が口酸っぱくなるほど説明してくるから今も忘れない三角関数のsin, cos, tanとかみたいなものは、言葉で説明しなきゃならないから、教科書にも書いてあって説明してあるけれど、言葉は後からできたもので、もともとの概念は目に見えなくても既にそこに存在していますね。

 

概念と理論

驚くことなかれ!私がフロイト理論を古典文学に適用しようとしたとき、「その時代の作品には、まだフロイトの理論は存在していなかった」と反論した人がいました。昔からずっと存在していたけど、誰も発見できていなかったか、説明困難であった概念を、ついにフロイトが言語でもってそれを説明して理論化したのですよね。フロイトによって理論化されただけで、その概念自体はそれ以前からずっと存在していましたよね。これまで確実に存在しているが目に見えなかったものを、フロイトが我々の目に見えるようにしてくれたってことです。

 

真実とその似姿

次に、beとbecomeの違いを考えてみましょう。beというのは「ありのままのもの」と解釈します。つまりこの部分が「真実」ですね。

 

たまに、「そんなの○○さんらしくないよ」って言う人いませんか!?「○○らしい」って何!?それは「本当の私」ではなくて、あなたから「そう見えていたもの」ですよね。本来、哲学や心理学的には「本当の私」っていうのは自分でさえも到達できずに人が一生をかけて追求し続ける問題です。

 

その自分でさえも到達できない「真実」がbeだとお考えください。そして、目に見えてるものだったり解釈によってつくりあげられたものなど真実の似姿をbecomeとしましょう。

 

プラトンイデア論がわかっている方は、話が早いです。イデアの部分がbe (真実)、イデアの似姿がbecome (そう見えてるもの/肉体的に知覚できるもの) という解釈です。

 

ハムレットの葛藤

ハムレット』は最初から最後まで、「真実」と「その似姿 (そう見えるもの)」の間での葛藤する主人公の苦悩がドラマ化されています。

 

例えば、父親を名乗る幽霊。「幽霊」っていう得体の知れない不気味な存在が、すでにこの問題を提起してますね。しかも、父親だと名乗ってますね。「名乗る」っていうのもこの問題に深く関連しています。「名前」とは何でしょう!?

 

私は6歳の時、この問題に関する一番最初の体験をしました。小学校一年生の時、隣の席の男子の名前が「トオル」だったんです。「ふぅん、こいつトオルっていうんだ」って思って、「トオル」って1回目に頭の中で言ってみた時は良かったんです。ところが3回5回と繰り返して言ってみたら、「トオル」っていったい何!?分解すると「ト」と「オ」と「ル」で、それが組み合わさったんでしょ!?でもなんで分割した独立した音が組み合わさった時に「トオル」ってなって、さらにはこの隣にいる男のことを示してさえいる。それで考えるほど頭の中がおかしくなってきて、「トオル」っていったいなんのことなんだか「トオル」の意味がわからなくなってきてしまったんです。だんだん得体の知れない不気味な存在に思えてきて、それ以上考えたら、本当に頭がおかしくなりそうでした。

 

この衝撃的な体験を、家で母親に話したら、全然理解してもらえませんでした。小学校一年生だから、上手に説明できなかったのもあると思いますが。

 

私の名前は「むつこ」ですが、それは私の真実ですか!?「あなただれ?」って言われたら「むつこ」って答えますけど、それは私っていう人間の上にラベルを貼っただけのものですよね。漢字で書いたら意味が加わりますけど、ひらがなとかだったら音だけですね。しかも音だったものがローマ字になるとさらに別のものに化けますね。日本人ならこの音節をMu/tsu/koって分解しますけど、アメリカ人など英語のネイティブスピーカーならほぼ間違いなくMut/sukoって分解しますからね。

 

仮に名前がなくても、私という「自己」は存在していて、隣の席の男という「他者」は存在している。社会生活で区別しなきゃならないから、名前というラベルが付いたんですよね。専門的には「記号」っていう言い方をします。名前は一種の記号ですね。

 

さて、ハムレットはこの「名前」という記号の氾濫を体験している様子が五幕二場で伺えます。彼は、自分を一人称の"I"で示さずに、自分のことを三人称の"Hamlet"で示しています。これは自分の中の他者 (ハムレットのラベルを貼られた知覚できる自分)と、本当の自分 (目に見えないが確実に存在している真実の自己)との違いの認識が強く表れている部分だと思います。つまり、"I" (自己) とその似姿である"Hamlet"と名付けられたものとの違いの認識です。これは、先に述べたbeとbecomeが当てはまりますね。beは「真実」、becomeは「その似姿」。

 

このように、『ハムレット』は作品全体を通して、主人公であるハムレットが概念と言葉の間で葛藤する様子が描かれています。彼は、その葛藤を"Words, words, words"と第二幕で吐露しています。つまり、「概念」が真実、その似姿を表したのが「言葉」ですね。

 

To be, or Not To beの意味

もう答えが見えてきましたよね。父親の幽霊を名乗るものの存在、名前の問題、言葉の問題、自分が五感で感じて見えてきたものに、ハムレットは疑いを抱き始めます。疑えば疑うほど、考えれば考えるほど、気が変になりそうな感覚に襲われて葛藤します。つまり、"To be, or not to be"の私の解釈は、「真実」と「そう見えるもの」の主人公の葛藤なのです。"To be"が究極の真実、"not to be"がそれ以外のもの (真実の似姿も含める)。

 

実は、現実社会では「似姿」も真実に含まれます。つまり、現実社会では「真実」と「そう見えるもの (似姿)」は両方とも真実として扱われます。それどころか、むしろ「似姿」の方こそが真実として扱われています。なぜかというと、目で見て確認できるから。証拠があるからです。一方で「究極の真理」の方は、目に見えなくて観念的なので見過ごされがちです。

 

しかし、哲学とか心理学的な領域においては、両者は完全に区別されます。確認のために繰り返しますが、「真実」は究極の真理で目に見えないもの、「そう見えるもの」は真実の似姿で我々が知覚出来るものです。

 

ハムレットは最初は現実社会の領域ですよね。父親の幽霊を名乗るものが現れて、実際にその目で見て聞いたからには、それを信じて復讐を計画する。ところが、考えれば考えるほど、哲学的な精神世界に入っていきますね。そのため、存在、名前、言葉、感覚、すべてが疑わしくなってきて、復讐が延期されます。それで、このセリフ。"To be, or not to be" つまり、「真実」と「そうでないもの」の存在意識に目覚め、もしかして自分は「似姿に迷わされているのではないか!?」という主人公の葛藤の吐露なのだと私は考えてます。

 

20200822015235