Dr. Mutsuko Takahashi BLOG

ニューヨーク在住、英文学博士・個人投資家の高橋睦子【Mutsuko Takahashi】です。ブログへのご訪問ありがとうございます。

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フロイト:喪の作業

ハムレットの復讐の遅延に関する記事で、フロイトの「喪の作業」について触れました。

エディプスコンプレックスの文学的応用:『ハムレット』 - Mutsuko Takahashi BLOG

 

また、ヘミングウェイの『武器よさらば』についての記事でも、「喪の作業」について触れています。

アイデンティティの喪失:ヘミングウェイ - Mutsuko Takahashi BLOG

 

この記事では、「喪の作業」についてもう少し詳しく説明したいと思います。

 

 

喪の作業とは

フロイトは「喪とメランコリー」という論文で、喪の作業について書いています。「喪の作業」というのはどういうことかというと、愛する対象を亡くした喪失経験の後に行う心理的な作業の過程のことです。

 

愛する対象というのは、「人」の場合もありますし、「国」とか「故郷」とかの場合もあります。フロイトは「喪の作業」を十分に行うことの重要性を説いています。

 

通常の悲嘆と病的な悲嘆(メランコリア)

フロイトは通常の悲嘆と病的な悲嘆(メランコリア)を区別しています。例えば、愛する対象を失ったとします。悲しみに打ちひしがれることでしょう。しかしこの場合は通常の悲嘆に分類されます。どうすると病的な悲嘆に変わるのかは主に下記の通りです。

  1. 喪の作業にじっくり時間をかけない
  2. 喪失した対象を別の対象に入れ替える

 

まず1について説明します。愛する対象を失った悲しみを十分に味わい受け止めることで、喪は明けていきます。ところがこの悲しみを十分に味わないで紛らわそうとしたのでは、悲しみは誤魔化されただけで本当の意味で心の喪は明けていきません。そのため、喪の作業にじっくりと時間をかけることが必要なのです。

 

次に2について説明します。喪失というのは何も「死」だけではありません。「死」は究極の悲しみですが、「失恋」なども喪の対象となります。あるいは戦争などの政治的な理由から国を追われた場合など、失った対象が故郷だったり、抽象的な概念だったりしても喪の対象となります。ここでは身近な例として「失恋」で説明しますが、他の例にも適用できるということを念頭に包括的に捉えてください。

 

例えば、あなたがAさんに「失恋」したとします。その場合、あなたが克服すべき喪の対象はAさんです。ところが悲嘆に暮れていたのも束の間、十分な喪の作業を行わないうちに、別の恋人Bさんに乗り換えたとします。この対象の代替こそが、フロイトが考える「喪の作業の失敗」として最悪のケースです。包括的に考えてください。何も別の恋人だけが乗り換えの対象ではありません。Aさんがいなくなってポッカリ空いた穴を埋めようと、趣味に打ち込んだとします。趣味に打ち込みながらもしっかりと悲嘆を受け止めようとすればそれで良いのですが、趣味に打ち込むことで悲嘆を誤魔化そうとすると、それも対象のすり替えということになります。

 

喪の失敗

喪の失敗は、すでに述べた通り、不十分な喪と、喪の対象のすり替えによって起こります。特にこの対象のすり替えは、決して達成されることが不可能な飽くなき欲求を引き起こします。喪に失敗した人のことを明確にするために「患者」と呼ぶことにしますが、それによってどうなるかというと、患者は自尊心の低下が起こります。そして、その自尊心の低下の場所を埋めるものとして、すり替えられた対象が置かれます。つまり、すり替えられた対象は患者にとって一人二役です。一つ目は喪の対象の代替物、二つ目は患者がなくした自尊心の代替物。

 

文学作品への適用の可能性

喪の作業の文学作品への適用に関しては、独立した記事として述べるつもりでいますが、すでに別記事で述べた例では、ハムレットの喪の失敗により病的に進行したメランコリアが挙げられます。

 

私が思うに、ヘミングウェイの『武器よさらば』のキャサリンメランコリアの例として挙げられるしフレデリックもまた社会的喪失による通常の悲嘆の経験者だと言えます。

 

植民地の犠牲者なども、文学作品上でメランコリアの例として論じることが出来るかと思います。

 

このようなケースは文学作品上どうなるかというと、大体は精神が分裂してしまうという結果に描かれています。

 

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