アイデンティティの再統合:フィッツジェラルド
この記事ではアイデンティティの再統合という観点において、フィッツジェラルドの『夜はやさし』(1934)、『ラストタイクーン』(1941) を挙げます。
『夜はやさし』
『夜はやさしのディック』がアメリカに戻るという出来事は、『グレートギャツビー』のニックが中西部に戻るという出来事と似ています。ギャツビーの死後、ニックは東部の歪んだ側面と古き良き時代の喪失の世界を見て、中西部に戻ります。一方、ディックは妻と別れた後アメリカに戻ってきます。
しかし、それらの作品では、夢を失った後の展望が異なります。『グレートギャツビー』ではギャツビーのアメリカンドリームが実現しなかったことによる空虚感に語り手の関心がハイライトされています。一方、『夜はやさし』では、空虚の中に新たな展望を見出そうとする様相が暗示されます。
この小説は二つのバージョンがあります。一つは1934年版で、もう一つは1951年版です。小説のプロットに関しては、章がまるごと入れ替わっています。1951年版はディックのニコールとの結婚と結婚生活のいきさつが冒頭にきます。一方、1934年版はフレンチリビエラのビーチでディックと出会ったローズマリーの視点から始まります。
アメリカの大学院で「どっちのバージョンが好きか」と教授に聞かれたので、1951年バージョンの方が早い段階でディックの結婚生活における葛藤が理解できるのでよいと答えましたが、後になって考えてみると、1934年版も良いですね。
なぜ、1934年版も良いと思ったかというと、その理由は冒頭にフレンチリビエラのシーンを持ってきたからです。特に、ヘミングウェイのフランスに向かうアメリカ人が描かれている作品と比較する際に、フィッツジェラルドのこの作品がフランスのリビエラ海岸のシーンで始まることは重要なポイントだと思います。
古き良き時代が終わりつつある社会的混乱の中で描かれるディックの挫折の背後には、新しい文明と文化の夜明けの光が見え隠れしています。かくして、小説は暗闇と混乱から新しい展望へのターニングポイントを提示しており、崩壊からの再統合の側面を含んでいると解釈することができます。
『ラストタイクーン』
この作品は、死後に出版されたフィッツジェラルドの未完成の小説です。小説はハリウッド映画産業を描いています。映画プロデューサー兼主人公のスターは、キャサリンが亡き妻で女優のミナのように見えることから、キャサリンに恋をします。
さらに、女優としてのミナよりも、私生活のミナに外見が似ていると彼は感じています。そのような観点から、この作品は、実像と鏡像の違いという観点からアイデンティティの問題を検討するための重要なテーマを提供しています。
映画プロデューサーとして、スターは2つの世界に住んでいます。一つは現実世界で、もう一つはフィクションの世界です。
『グレートギャツビー』との類似性については、ジェームズギャツがジェイギャツビーというブランドを作成したことと似ています。つまり本物の像と架空の像です。スターの場合、亡き妻ミナの2つの像があります。本物とアイコンです。キャサリンは本物のミナに似ていますが、それでも「美しい人形(第五章)」です。というのも、彼女は亡くなった妻の代わりに過ぎないからです。