ヘミングウェイとフィッツジェラルドの文献:伝記的背景
この記事では、ヘミングウェイとフィッツジェラルドを比較する際に役立つ文献の中から、伝記的な背景について書かれている研究書と、ヘミングウェイ自身が執筆した自伝的な本を紹介します。また、選んだ理由も述べます。
- Scott Donaldson, Hemingway vs. Fitzgerald, 1999.
- Scott Donaldson, Fitzgerald and Hemingway, 2009.
- ヘミングウェイの『移動祝祭日』(1964)
Scott Donaldson, Hemingway vs. Fitzgerald, 1999.
この本は、自伝的事実に基づいて、フィッツジェラルドとヘミングウェイの間にある友情の問題を包括的に扱っています。ヘミングウェイの妻メアリーは、ヘミングウェイの著書『移動祝祭日』のいくつかの章を読み、この本は自伝ではなく、他の人々に関するものであると述べました。これがドナルドソンがこの本を書く動機となったものです。この本は、一人の作家を本当に理解するためには、他の作家も理解する必要があることを示唆しています。そのため、二人の作家の作品を比較して探求するのに役立つと思ったのでこの本を選びました。
Scott Donaldson, Fitzgerald and Hemingway, 2009.
ドナルドソンは、フィッツジェラルドとヘミングウェイの作品の違いの中で親和性の要素を探ります。彼らの作品をより深いレベルで調査するために、彼らの友情とライバル関係を知ることは興味深いので、私はこの本を選びました。
実際、フィッツジェラルドは、ヘミングウェイが有名になる前に、出版社にヘミングウェイを紹介しました。ヘミングウェイが人気を博し、フィッツジェラルドが個人的な悲劇に巻き込まれた後、彼らの関係はこじれます。その伝記的背景は、作品にも及びます。ヘミングウェイは、『キリマンジャロの雪』でフィッツジェラルドを間接的に非難しました。彼は、フィッツジェラルドのエッセイ「崩壊」におけるフィッツジェラルドの人生観が気に入らなかったからです。
ドナルドソンの中立的な姿勢には偏見がなく、読者は自分で考えることができます。
ヘミングウェイの『移動祝祭日』(1964)
先に紹介したドナルドソンの研究書の中で、ヘミングウェイの妻がヘミングウェイの『移動祝祭日』を自分に関するものではなく他人に関するものだと書かれていますが、私の考えでは、他者に関することの書き方によってより自己が浮き彫りになると思います。つまり、ヘミングウェイがフィッツジェラルドについて書くとき、よりヘミングウェイのことがわかります。
その点において、このヘミングウェイの著書『移動祝祭日』は面白い本です。ヘミングウェイとフィッツジェラルドの関係を、ヘミングウェイの視点から知ることが出来ます。さらに、ふたりの交友関係だけでなく、ヘミングウェイのフィッツジェラルドに向けられたライバル意識も知ることができます。
ヘミングウェイは、フィッツジェラルドの『グレイトギャツビー』を読んで感銘を受け、このような作品を書けるフィッツジェラルドが、どんなふるまいをしようと、まあ病気のようなもんだと思うことにして、それよりも出来る限り助けになって良い友達になろうと心に誓います。
これは一見、良い話みたいに思えますが、良いことを言いながらけなしているのがわかりますね。
さらに、驚いたことに、ヘミングウェイは『移動祝祭日』の中で、フィッツジェラルドがペニスが小さいと悩んでいたことを暴露してしまいます。確かにフィッツジェラルドの死から四半世紀近く経っているとはいえ。本来、男同士の二人だけの会話で済まされることを、本として出版することで世界中の人にその後長きに渡って知れ渡ることとなりました。
これについてどう思うかと、教授に聞かれたので、フィッツジェラルドのコンプレックスよりもヘミングウェイのコンプレックスの方がはるかに上回っていることが浮き彫りになり、その点でヘミングウェイの方がより抑圧されている作家であり、その内的葛藤に苦悩している様子が伝わってくると答えました。
こういうことは、日本だとちょっと聞きづらい質問として取り扱われるのかもしれませんが、アメリカだと普通に議論されますね。
また、ヘミングウェイの妻がどう言ったにしろ、彼の妻は生身のヘミングウェイを知っている人だということに注意する必要があります。我々が研究対象として知ろうとしているのは、生身のヘミングウェイではなく、作品を通して見えてくる作家としてのヘミングウェイだからです。
そう考えると、『移動祝祭日』はヘミングウェイの妻が「自分のことではなく他人のことを書いたものだ」と主張していますが、それは表面上の話で、他人のことを書くことでより一層見えてくるヘミングウェイ像を浮き彫りにしているという点において、彼自身のことをよく表している作品だと思います。