Dr. Mutsuko Takahashi BLOG

ニューヨーク在住、英文学博士・個人投資家の高橋睦子【Mutsuko Takahashi】です。ブログへのご訪問ありがとうございます。

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エディプスコンプレックスの文学的応用:『ハムレット』

エディプスコンプレックスを『オイディプス王』に応用した記事はこちらです↓

エディプスコンプレックスの文学的応用:『オイディプス王』 - Mutsuko Takahashi BLOG

 

この記事では、『ハムレット』への応用について書いていきます。

 

 

ハムレット』で特に有名なセリフ

日本語では「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」と訳されていますが、このセリフは有名なので、聞いたことがあるかもしれません。この部分は英語だと、"To be, or not to be, that is the question"です。翻訳者の方も随分と迷った挙句、この訳にしたことと思います。この部分は、いろいろな解釈が可能だと思います。「生きるべきか、死ぬべきか」と解釈する方もいれば、「復讐を果たすべきか、やめるべきか」という解釈をする方もいらっしゃいますね。

 

前者の解釈は、このセリフの直後にハムレットが死について思想を展開するところに理由があると推測できますし、後者の解釈はより大きな文脈においてこの作品のテーマが「復讐」なのでそういう解釈になるのだと思います。いろいろな解釈を可能にするために、わざわざ曖昧な言葉を使っているのだと思います。

 

ハムレット』のテーマ

シェイクスピアの偉大な作品である『ハムレット』には、数々のテーマが記号の氾濫のごとく織り込まれていますが、その中でも際立って取り上げるべき問題は、「ハムレットの復讐の遅延」と言えるでしょう。ハムレットは「復讐する」と心に誓ったのに、どうしてあれほどまでに悩んでグズグズと復讐を先延ばしにしたのでしょうか!?

 

ハムレット』のフロイトの解釈

フロイトは「夢解釈」の論文の中で、2つの文学作品の精神分析にアプローチしていて、そのうち一つが別記事で取り上げた『オイディプス王』、もう一つがこの記事で取り上げている『ハムレット』です。

 

先に述べた、ハムレットの「復讐の遅延」の問題については、フロイトも指摘しています。フロイトは、この「復讐の遅延」の問題をハムレットのエディプスコンプレックスにあると考えました。ハムレットが復讐を先延ばしにしたことが物議を醸しだすというよりは、むしろこの「復讐の遅延」こそがハムレットの中核をなすテーマであると、フロイトは主張しています。

 

ところが、それにもかかわらず、その「復讐の遅延」の理由についてはどこにも述べられていないことを、フロイトは指摘しています。ハムレットの立場を考えれば、何でもすることができるのに、なぜか復讐の遂行として叔父クローディアスを殺すことだけがやり通せないということに疑問を提起しています。

 

フロイトはその理由を、ハムレットのエディプスコンプレックスに見出しており、この復讐のターゲットである「叔父」がハムレットの幼少時代の抑圧された願望を実現している存在のため、無意識レベルにおいて自分もかつて持っていた欲望への「自己非難」と「良心の呵責」から叔父を殺せないでいると考えています。

 

フロイトの述べていることをもっと簡単に説明すると、自分がかつて持っていた欲求(父親殺しと母親との一体化というエディプス的な欲望)を、この叔父が(母親との婚姻によって)実際に叶えていることを目の当たりにして、抑圧されていた願望が無意識レベルにおいてよみがえり、「自分の方がもっと悪い人間じゃないか」という自分を責める気持ちから、叔父を殺せないということです。つまり、この叔父はハムレットの願望を体現している人物であるため、ハムレットは彼を殺せないのです。

 

ジャックラカンの見解

ジャックラカンは彼の論文"Desire and the Interpretation of Desire in Hamlet"で、フロイトが提起した問題に実際にアプローチしています。ラカンも『ハムレット』の中心的な問題はエディプス的問題に基づいて目的地を失ったハムレットの欲求であると示している点において、フロイトと同じ考えを持っています。しかし、フロイトハムレットの行き詰った欲求に焦点を当てている一方で、ラカンハムレットのエディプスコンプレックスからの回復の過程を見出しています。

 

ラカンは、ハムレットの復讐相手・叔父によって体現されているファルスは、あまりにも現実的な場所に位置していて、エディプスコンプレックスの無意識的な概念の場所からすると完全に場違いな場所にあると指摘しています。

 

つまり、叔父は実際に母親との婚姻を通してファルスの位置を獲得しており、それはあまりにも現実世界に根差した願望の成就である一方、ハムレットのエディプスコンプレックスは無意識の領域に位置するものだということです。そのため、ハムレットが襲撃しようとしているファルスは現実の場所にあることにハムレットの躊躇の原因を見出しています。

 

そしてさらに、ラカンは「ファルスとしての叔父」を本家本元のファルスであるハムレットの父親に還元しています。

 

どういうことかというと、母親の再婚相手である叔父によって「ファルス」はすり替えられたが、もとはといえばハムレットにとっての本物のファルスは「父親」です。そして、その「父親のファルス」は亡霊なので攻撃することが出来ないということをラカンは意味しています。

 

フロイト理論の一つとして「喪の作業」というのがあって、詳細は別の機会に述べますが、ラカンフロイト理論の「喪の作業」の不足を指摘しています。簡単に「喪の作業」を説明すると、誰かを亡くした喪失体験後の心の過程のことです。フロイトは通常の悲嘆と病的な悲嘆を分けていて、愛する対象の喪失により人が経験するのは通常の悲嘆ですが、この悲嘆を時間的にも感情的にも十分に行わないと病的な悲嘆・メランコリアへと進行するというものです。この最悪の例は、この悲嘆の原因となっている喪失対象を別の対象に入れ替えることです。この「喪の作業」はフロイト理論でも大事な部分なので、独立した記事を設けます。

 

現段階において押さえていてほしいポイントは、ラカンが指摘するところによると、ハムレットが十分に喪の作業を行わないまま、悲嘆の対象を差し替えたということです。具体的に言うと、「父親のファルス」が「叔父のファルス」に入れ替わり、しかもその「叔父のファルス」が示すものは「ハムレット自身の願望」の代替ということになります。そのため、ハムレットは叔父に自分を見出そうとしています。それこそがラカンの主張する「復讐の遅延」の理由です。

 

そのような理由から、ハムレットの場合はエディプスコンプレックスからの回復である「父親の去勢」の受け入れが、通常のプロセスで行われていません。「父親の去勢」の過程は、父親不在のためハムレットの父親への「喪の作業」に取って代わりました。ところが問題は、大事な過程である「喪の作業」が母親の早期の再婚によって十分に行われずに、「叔父のファルス」という別の対象に取って代わったのです。その結果として、ハムレットの「喪の作業」は、父親の死のために行われたのではなく、「ファルス」へのナルシシズム的な固着に対して行われたといえます。

 

私の見解

ハムレット』に対する私の見解は長くなりますので別の機会に改めますが、最初に述べた「生きるべきか死ぬべきか」の部分に関してだけ言及しておきます。先に、いろいろな解釈の可能性を示すために意図的に曖昧な言葉で表現しているのではないかと述べました。シェイクスピアが「生きるべきか、死ぬべきか」を意味したかったのならば、より明確な言い方があっただろうし、「復讐を果たすべきか、やめるべきか」を意味したかったのならば、やはり明確な言い方があったはずです。そのため本当に意味するところも含めて包括的にするために曖昧な言い方をしたと推測できます。この「曖昧さ」というのは、『ハムレット』を読み解くカギだと私は考えています。

 

ラカン的な読み方から、ハムレットは「喪失」したところの部分にポッカリと穴があいて、その部分を追い求めているのがわかります。私の考えでは、"To be or not to be"というのはハムレットが「喪失したもの」の正体を真に追求する態度だと考えています。端的に言うと、とりわけ父親の亡霊によって示された「存在の真偽」を問うものだと思います。

 

"To be"が位置するところの場所は、到達不可能な意識的に知覚することのできない自己の原始的な存在を表していて、"not to be"と称するところは彼を取り巻く知覚できる世界、とりわけ言葉を扱うところの「大文字の他者」の世界観を表していると私は考えています。そのはざまで彼は悩んでいる。そう考えると、彼が後に「言葉、言葉、言葉」と言って頭を悩ませている意味が納得できます。「父親の亡霊」は言葉を用いてハムレットに思いを伝えてきますが、「言葉」はハムレットに伝わるが「意味」は伝わらない。だからこそハムレットは悩むのです。彼を悩ませているのは、意味が生じる以前の到達不可能な場所にある概念と言葉が生み出す意味のどちらに真偽を問うべきなのかということだと私は考えています。

 

こちらの記事で、"To be, or not to be"の解釈を、なるべくわかりやすく、詳しく書いています↓

ハムレットの To Be, or Not To Be の解釈 - Mutsuko Takahashi BLOG

 

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