Dr. Mutsuko Takahashi BLOG

ニューヨーク在住、英文学博士・個人投資家の高橋睦子【Mutsuko Takahashi】です。ブログへのご訪問ありがとうございます。

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文学とは何か!?他分野との決定的な違い

文学について語り出せばとても長くなってしまうので、「文学とは何か!?」という問題を私の文学との出会いと目覚めに照らし合わせて別記事で述べています。

こちらです。↓

文学とは何か!?文学との出会い - Mutsuko Takahashi BLOG

 

この記事では、他分野との決定的な違いという観点から「文学とは何か!?」という問題を英文科の存在意義と照らし合わせて考察していきたいと思います。はっきりいって答えの出ない質問ですので、いまだに追究される対象となっています。そのため、私なりの個人的な考えを述べています。

 

 

文学と科学:共通点と相違点

文学と科学の共通点と相違点を考えるにあたって、興味深いことに、私がアメリカの大学院で最初に受講したコースの最初のクラスで、アインシュタインの論文と文学作品の違いは何かと教授が質問を投げかけてきたことを思い出しました。

 

科学と比較して、文学は比喩的に井戸を掘るという点で、私は両者に本質的な共通点を見出しています。両者の最大の違いは、科学研究の対象が主に物質と人体に関するものであるのに対し、文学研究の中心テーマは人間全体に関するものであると思います。特に文学は、人間とは何か、人生の意味とは何かを追究するための研究分野だと考えています。

 

科学における「心」の解釈は「心臓」という臓器であり、それは文学においては、「心理」という概念です。

 

科学と文学の共通点は、何かを発見するということです。双方の最終目的は、ある質問に基づいて新しい発見をすることですが、両者は研究の方法という点において異なっていると思います。科学は主に因果関係について説明することにその意味を見出す。一方、文学作品には、作者からのメッセージだけでなく、歴史的、社会経済的背景も含まれており、それにより文学の主な目的はそれらの隠されたメッセージを解釈することです。

 

学術分野としての文学の目的は、限られた記号で構成されているテキストの中で無限の可能な解釈を見つけることだと思っています。

 

また、文学研究は人間の内面の普遍性を追究することです。主な目的は、さまざまな現象に共通の特定の法則を見出し、そこから普遍的なモデルを発見することです。言い換えれば、文学を研究することは、私たちが生きている意味、人生の意味さえも追究することだと言えます。したがって、文学がなければ、人々は人生の意味を探すのをやめるといっても過言ではないとさえ思っているくらいです。

 

文学の他分野への応用性

このような観点から、近年、文学が他の分野にも実際に応用されているのは興味深いことです。

 

例えば、私は精神分析の観点から文学を研究することに強い興味を抱いています。このように文学が精神分析から考察されるように、逆に精神分析もまた、文学的な観点からからさまざまな概念が考察されています。最近では医療分野でも文学は応用されています。例えばRita Charonは、医者と患者の関係を改善するために、文学と医学の関係を確立しました。

 

しかし、この種のアプローチはすでにずっと前から存在していました。19世紀には、精神科学は医学の領域としてだけでなく、新しい知的分野としても確立されていました。生理学的心理学の観点から、心と体は相互に影響し合っている関係であることを強調する研究者もいます。歴史をたどると、私はこの考えの起源を17世紀までさかのぼり、Robert BurtonのThe Anatomy of Melancholy『憂鬱の解剖学』からのHumor theory(四体液説)で見ることができると思います。メランコリア的な気質の人は、黒胆汁の体液が多い人であるという理論です。

 

文学という架け橋

文学は世界をまたぐ架け橋であると私は考えます。文学研究の役割は、読者とテキスト、および作家の間の架け橋を築くことです。

 

例えば、シェイクスピアが生きていた時代と社会は私たちのものとはかけ離れており、シェイクスピアの英語と現代英語、さらには私たちの日本語とも言語の大きな違いがあります。それを何らかの形でギャップを埋め、読者をシェイクスピアのテキストへさらにはシェイクスピア自身にまでも接近して解釈することへと導くというそのような活動への役割を担っているのが英文学科における文学研究の目的だと思います。

 

私はこの種の文学研究は心を分析し、人々を探求することだと考えています。社会的な意味に関しては、それは文化的に良い心を養い、私たちがあるべき姿を見出すことだと思っています。

 

かくして、さまざまな違いを超えて、他者への共感する力は文学研究の結果によって養われます。それは先に述べた、さまざまな現象に普遍的なモデルを発見することにつながります。

 

文学が提示する普遍性とは!?

例えば、法律や経済分野ではすべての人々が同じ個人と見なされています。特定の要因に由来する、個人の活動のパターンは抽象化され、図式化され、評価され、定式化されるでしょう。その際、多様性のある複雑な個人の要素を排除した後でさえも、それぞれの個人の持つ個性的な要素は考慮されません。

 

対照的に、文学は個人を扱います。文学の個人の扱いを説明するために具体的な例を挙げます。例えば、事故などで死亡した人が5人いたとします。社会・経済的分野においては、統計に照らして、死亡者の数は「5」と表されることでしょう。また裁判所では、被害者たちの予想される生涯賃金が推定され、損害賠償金が遺族に支払われるかもしれません。もし年齢や経済的に同じような背景の被害者ならば、支払われる金額も大差ないことだと思います。このような世界では、被害者たちの死は同じ事件として扱われます。

 

一方、遺族にとって、愛する人を喪失した悲しみは絶対的な事実であり、それぞれの遺族が、それぞれ異なる思いを抱いている。一人一人の犠牲者は、「5」という数字で表されるものではなく、それぞれがユニークで、異なる性格を持つ個人です。文学だけが、それぞれの個人の違いを説明し、人々の悲しみをドラマ化することができます。文学は絶対的な事実として遺族の悲しみをとらえ、犠牲者個人の独自性を区別します。

 

さらに、文学テキストを通して読者が自分の気持ちや思考を共有することを可能にします。したがって、他の学術分野では省略された問題を取り上げることができるのは文学であるといえます。この種の他者への共感力は、文学教育を通して想像力を養うことによって獲得されることでしょう。以上のようなことが、私が考える人文学的に見た文学の重要性です。

 

社会的・歴史的観点からの考察

次に、文学の社会的・歴史的側面に関する例を挙げたいと思います。例えば、ヴィクトリア朝時代の史実は、先行研究と歴史的記録から知ることができます。

 

しかし、本に書かれた歴史的事実とされるものは、その時代の雰囲気までもは、完全に伝えていないでしょう。

 

ヴィクトリア朝の人々はどのように恋愛をしたのでしょうか!?この質問への答えは、ヴィクトリア朝の小説を読み、解釈を深め、どのような背景にヴィクトリア朝時代があったのかを明らかにすることによって、言葉の中や、言葉の裏にあります。また、それは実際に書かれていることだけでなく、検閲や時代背景が理由で意図的に書かれていないというところに真実を見つけることもできます。そのような知識は文学の解釈を通して深めることなしには得られないでしょう。

 

歴史的・社会経済的背景の違いを超えて、他者への共感の力を磨き、普遍性を見出すことが重要です。そういった意味から、文学研究は文学テキストを用いた社会学、歴史、哲学、心理学などであるといえるでしょう。

 

作家と読者の関係

文学作品は著者の執筆行為だけでは完成しません。それは読者の読書活動を通して完成するといえると思います。つまり、文学作品の本当の完成は、作家が生み出した文学テキストと読者との関係において初めて成立するということを意味します。というのは、誰にも読まれていない文学作品はまだ意味の潜在性を秘めているだけで沈黙したまま意味を獲得していません。

 

言葉の背後にある象徴的なメッセージがある限り、読者の背景によってさまざまな種類の解釈が可能です。作者がどれほど繊細な記述をしたとしても、解釈の余地を消すことは不可能であるため、文学研究の余地があります。

 

「作者の意図は何ですか?」という問題に対して、「私はそういうつもりで書いていない」と作家が言ったとしても、文学研究とはそういうことではありません。「与えられたテキストを通した作者の意図」であり、「生身の作者の意図」のことではないからです。

 

コミュニケーションとしての文学

文学テキストの解釈により近づくために、文学作品が人の心の内側を扱っているということを思い出してみることが重要です。作者は作品中に語り手という存在を設けて語り手の言葉によって出来事が語られます。信頼できる語り手と、信頼できない語り手がいるので注意が必要です。信頼できないというのは実は重要です。作者がなぜ信頼できない語り手を使っているのか、そこに重要な真実が隠されている可能性が高いからです。

 

そして読者は自らの感性を通して文学作品中に繰り広げられた世界を知覚します。コミュニケーションの合理的なツールは言語なわけですが、文学作品は、感性によって知覚される概念がどのように言語化されているのかを明らかにし、その言葉を読者がどう捉え得るかという解釈の可能性の疑問を常に投げかけています。文字通りの意味、象徴的な意味、言葉の裏にある意味など。

 

また言語とは、概念を言語化した結果として生み出されるものであるという特性上、年齢や民族によって異なる意味を運ぶことがあります。一つの言葉は、さまざまな社会グループや年齢グループにおいて微妙に異なる意味の可能性を持つことで、言葉とは常に流動的で変幻自在な様相を帯びています。概念とその言語化という緊張の中に潜在的な曖昧さを包含しているという、言語というアートを扱った学術分野は文学以外にはありません。

 

文学は世界への窓

これまで述べたように、文学研究は作家とその作品を通して世界とつながっています。私はその活動を井戸掘りに喩えました。文学研究の井戸は、他の井戸と絡み合い、複雑な水路を作ることでしょう。しかし、それは正しい方法で掘らなければ壁が崩壊してしまうかもしれません。客観的な視点を確保しながら井戸を掘り下げる必要があります。その方法を学ぶ場所を提供しているのが英文学科の役割です。

 

井戸が深くなるにつれて意味が深まるという意味では、文学研究と科学研究は本質的に似ています。人間の精神的世界が文学研究の最終目的地として深淵に広がるならば、ある文学研究は人間社会に大きな影響を与えなければならず、その大きな意義は文学的枠組みの領域を超えていきます。

 

その枠組みの領域を超えて広がる潜在的な解釈の可能性を目指す文学研究者の努力は、井戸から掘られた水を提供することと似ています。多くの人にとっておいしい、つまり普遍的な価値を獲得するような水を提供するために研究者は水を掘る方法を考案し、水をろ過する努力をしています。

 

その一方で、「あなたはこの繊細さを理解していない素人だ」と言って泥水を持ってくることは自己満足に他なりません。私は、文学研究はただ井戸を掘るための活動ではないことを強調したいです。井戸は正しい方法で掘られてこそ、素晴らしい井戸として機能するでしょう。それが英文科の意義だと思います。文学の井戸は、井戸の中心で社会学、心理学、哲学、言語学などあらゆる分野に深く通じています。

 

まとめ

文学作品は時代の影響を深く受けて創作されており、その作者もまた時代の影響のもとに個性を構築しています。したがって、文学研究は他の学術分野と連携して実施されるべきだと私は考えています。もし、それが細分化された文学という枠組みの中だけに限定されると、文学作品は枠組みの中で沈黙をしてしまい、研究の幅もまた狭まってしまいます。

 

文学テキストを通して伝えられる概念は時間と空間を超越しています。というのは、文学を研究するにあたって、その文学作品が他の分野とどのように結びつくかを理解せずに作家と文学作品を解釈することは出来ないからです。このように、文学作品は作者の個人的な内的世界だけを凝縮するのではなく、時間と空間を超越した人間の活動も含みます。

 

また文学作品は、読者が文学テキストを通して別の人生あるいは新しい人生を追体験するための貢献をします。その一方で、研究成果として新しい理解が促され、可能な解釈が永続的に提供されていくことでしょう。このような能力を高めるための専門的機関として、大学教育における英文科の存在意義があると私は考えています。

 

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