Dr. Mutsuko Takahashi BLOG

ニューヨーク在住、英文学博士・個人投資家の高橋睦子【Mutsuko Takahashi】です。ブログへのご訪問ありがとうございます。

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エディプスコンプレックスの文学的応用:『オイディプス王』

フロイトのエディプスコンプレックスについて、すでに別記事「フロイトの心理性的発達理論とエディプスコンプレックス」でお話しました。この記事では、エディプスコンプレックスの概念を実際にどうやって文学作品に応用するのかを解説します。

 

 

エディプスコンプレックスの起源

エディプスコンプレックスとは、フロイト自身がギリシャ神話のオイディプス王(エディプス王)の悲劇をもとにして、この概念を提唱しました。つまり、エディプスコンプレックスに関しては、精神分析的な理論を文学を当てはめるより先に、文学の方が先に精神分析的な概念を生み出したのです。

 

なお、オイディプスもエディプスもOedipusと書いて両方とも同じです。オリジナルの音に近いのがラテン語読みのオイディプスで英語読みがエディプスです。

 

フロイトは「夢解釈」という論文の中で、実際にソポクレスの『オイディプス王』について触れています。説明するにあたって、『オイディプス王』のあらすじを話す必要がありますが、このブログは読書ブログではなく研究ブログですので、作品に触れる際にネタバレは避けられませんのでご了承ください。

 

オイディプス王』のあらすじ

テーバイのライオス王は、妻イオカステとの間に子を設ける。ところが「息子に殺される運命だ」という神託を得て王は生まれた子を家来に殺せと命令する。しかし家来はかわいそうに思い、その子を山に捨てる。それを隣国の王夫妻が偶然に見つけて、その子を育てる。その子こそがオイディプスである。

 

オイディプスは成長するにつれて自分の出自に疑問を抱くようになる。するとオイディプスは、「お前は父を殺し、母と交わって子をなすだろう」というお告げを授かる。

 

オイディプスはそのお告げ通りにならないように王夫妻のもとを去る。そして向かった先が偶然にも生まれ故郷のデーバイだった。ちょうどその頃デーバイではスフィンクスという怪物が出没していて、デーバイのライオス王は家来とともに城を出ていたところをオイディプスと鉢合わせる。そこでいさかいになりオイディプスは実の父とは露知らず、それどころかどこの誰とも知らずにライオス王を殺してしまう。かくしてライオス王への最初のお告げ「息子に殺される運命だ」というのは現実となった。

 

スフィンクスを退治したことからオイディプスはデーバイで英雄となり、ライオス王殺しの真犯人とは知らずに、新しいデーバイの王としてオイディプスを迎え入れる。つまり、王妃はオイディプスの実の母ということであり、知らなかったとはいえ、実の親子同士の間で呪われた近親相姦の結婚をしたのである。やがてオイディプスは実の母との間に子を設ける。どういうわけかデーバイでは呪われたような不幸が続き、その原因を突き止めようとするうちにどんどん真実が明るみに。

 

オイディプス王』のフロイトの分析

オイディプス王』の物語に対するフロイト自身の分析によると、オイディプス王が父を殺害し、母親と結婚した事件は、誰にでもある人間の「根本的な欲望」に基づいているとフロイトは主張しています。その「根本的な欲望」をフロイトは、『オイディプス王』の物語に因んで、「エディプスコンプレックス」と名付けました。このようなエディプスコンプレックスに起因する「根本的な欲望」は誰にでも備わっているものであるため、フロイトは『オイディプス王』に見られたようなこのような願望は、我々自身の欲望であったかもしれないと主張しました。つまりオイディプス王が達成した「父親殺し」と「母親との近親相姦」は、我々自身の幼年期の願いの実現だったと主張したのです。

 

更なる可能性の追究

みなさま、すでにお気付きかと思いますが、フロイトは男性の欲望に焦点を当てていますね。フロイトが男性の欲望に焦点を当てていることを念頭に入れて更なる可能性を追究すると、ジャック・ラカンの理論を用いて女性の欲望に焦点を当てることでフロイト理論に挑戦することができます。これは研究として、とても面白いです。そのため、フロイトとの比較において、ジャック・ラカンによる別の視点を紹介したいと思います。

 

ラカンは『エクリ』という超難解な論文集の中で、「ファルスを持たない者」つまり女が「ファルスであるものだ」と述べています。いったいどういうことなのか、ラカンは超難解なのでいろいろ解釈が試みられていますが、まあファルスというのは男性の象徴のようなものですが、だからこそ男性はそれに頼るしかないという意味において男はファルスを持った女で、一見して男に設定されている主体位置を反映し、保証するものは、実は女であるという理論です。

 

このラカンの概念をジュディス・バトラーが発展させていて、そっちの方がわかりやすいかもしれないので紹介します。バトラーは『ジェンダートラブル』の中で、「ファルスを持つこと」と「ファルスであること」の違いを主張しています。彼女は、女性が「ファルスであること」は、「ファルスを持つこと」ではなくて「ファルスの権力を具現化すること」だと述べています。

 

フロイトの分析に対する私の分析

ラカンは難解なので、ラカンに関してはまた別の機会に詳細をご紹介するとします。この時点で注目していただきたいのは、私が先に述べたように、フロイトは男性の欲望に焦点を当てていますね。一方で、ラカン派の理論を用いて『オイディプス王』を読み直してみると、女性の欲望に焦点を当てて作品の再解釈を試みることが可能になるのです。そうです。これが精神分析の文学研究への応用です。

 

さて、ラカン派の理論を応用して、『オイディプス王』を再解釈してフロイトに対抗してみましょう。ちなみに文学研究における「対抗」とはネガティブな意味ではありません。私はフロイトラカンも大好きなので、あれこれ言い合うことで議論を発展させることで彼らに接近することができる。そうするとフロイト理論がより一層生き生きとしてくる、それが研究です。

 

フロイトは男性の欲望に焦点を当てていますが、ラカン的な思想から『オイディプス王』の物語の中に女性の欲望を観察することができます。どういうことかと言うと、この物語のテキストの背後に、夫の後継者として息子に王位継承することを望む母親の願望を読み取ることが出来ます。もちろん実の息子だとは知らないわけですから、精神分析学的な意味での「無意識の願望」ということです。そして、この種の母親の願望とは、彼女の夫のファルス(物語のテキストレベルでは王位)に対する羨望と、夫の権威に対する敵意からくるものであると考えることが可能です。

 

実はフロイトは、「ペニス羨望」という概念を提唱していて、それはどのようなものかというと、女児は自分にペニスがないことを発見して自分が最初から「去勢」された存在であることに気付き羨望を抱くというものです。ペニスは肉体的なものですがファルスは象徴的なもので「権力」とかそういったものも含まれます。フロイトの「ペニス羨望」の概念を思い出してみると、フロイトは彼自身の『オイディプス王』考察において、男性の欲望に焦点を当てていますが、実はフロイト自身が少なくとも『オイディプス王』考察の論文で書かなかったこと、彼の「ペニス羨望」の概念を応用して女性の欲望として『オイディプス王』を再解釈することも可能なのです。

 

つまり王妃のラカン的なファルス(男性的権力)への羨望は、フロイトのペニス羨望に基づいていると解釈することができるということです。

 

この王妃も若いころならいざ知らず。というのも、古典的な考え方をすれば、男性の性的衝動は女性を征服したいという支配の願望から生じているのに対し、女性の性的衝動は男性に支配されたいという欲求からきていると精神分析学的には見ることができます。現代のイデオロギーで言ってるんじゃないですよ。あくまでもクラシカルな精神分析学的観点から言っています。

 

こうした衝動は、支配したい男性と支配されたい女性という構図で、若い時には需要と供給のバランスをうまく保っていますが、だんだん女性も子供を育て上げてきたころには、自己顕示欲が男性と同等レベルか、それまで不当であった反動でそれ以上まで増加してくるものです。したがって、イオカステの潜在的な意識レベルにおける夫の権力への羨望と敵対心は、平等でありたいと切に願う彼女の欲求、あるいは最初からファルス的な権利をはく奪され去勢されたくやしさが生み出す敵対心からくるものであると解釈できます。

 

更なる研究

研究においては、ここで終わってはいけません。自分の主張した論をサポートしないと単なる思い込みになってしまいますので、論拠を提示しましょう。

 

オイディプス王』の結末において、オイディプスは全貌が明らかになったところで、自分には「目」というものが付いていながら何も見えていなかったと嘆いて、自分で目を潰してしまします。「目を潰す」というのは、精神分析学的には「去勢」を意味するものです。フロイトは彼の論文『不気味なもの』において、ホフマンの『砂男』の分析を行っており、『砂男』の物語というのは主人公が幼少の頃に聞かされた「眠らない子供の目玉を奪っていく」という砂男の話に大学生になってからも悩まされるというお話です。フロイトは「目玉が奪われる」という砂男のモチーフを、去勢不安を表すものだと主張しました。

 

それを一つ目の論拠として、オイディプスの「目を潰す」という行為は、儀式的な去勢を意味しているものとして挙げることができます。二つ目の論拠として、『オイディプス王』の結末におけるクレオンの言葉を上げたいと思います。クレオンは作品の結末でオイディプスに「いつまでも自分に権力があるとは思うな」的なことを言い放ちます。

 

これをオイディプス王の「去勢」であると考えて、ラカン的な視点から女性の欲望に焦点を当てることもできますし、やはりフロイト的な視点で男性の欲望を主張することもできます。なぜならば、この「去勢不安」とは、やはりエディプスコンプレックスに深く関わっているからです。エディプスコンプレックスにおいては、男児は「去勢不安」から母親から分離して大人になっていくことを「フロイトの心理性的発達理論とエディプスコンプレックス」の記事で説明しました。

 

このように、ここで結論めいたことは言いますが、結論は出しません。そうすることで、更なる研究の可能性へとつなげることができるからです。

 

あと、これを付け加えておきます。オイディプス王が「自分の出自に疑問を持ち」という部分。彼の場合は実際に出自に事情があったわけですが、そのような背景がなくとも、人間は「自分とは誰か」というアイデンティティの問題を一生背負って生きているといっても過言ではありません。このような普遍的な問題の劇化として、この部分を読むことができます。

 

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