Dr. Mutsuko Takahashi BLOG

ニューヨーク在住、英文学博士・個人投資家の高橋睦子【Mutsuko Takahashi】です。ブログへのご訪問ありがとうございます。

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フロイトの意識と無意識

この記事はフロイト理論についてです。精神分析学理論を文学研究に応用する際に必要な基礎知識の説明です。実際の応用の例は別の記事で書きたいと思います。

 

この記事では、エディプスコンプレックスを克服した後の幼児の精神的発達段階について説明します。

 

エディプスコンプレックスを克服することは、大人への第一歩です。エディプスコンプレックスについては、この記事で説明しています。

フロイトの心理性的発達理論とエディプスコンプレックス - Mutsuko Takahashi BLOG

 

 

超自我・自我・イド

エディプスコンプレックスが克服されるきっかけとなるのは、幼児が母親との一体感の中で感じる想像上の近親相姦に対して父親が高い権威でもって「禁止」を与えるからです。そのような禁止は、幼児が後に遭遇するすべてのより高い権威の象徴となります。そしてこの家父長制の法則の取り込みにより、幼児はフロイトが「超自我」と呼んでいるものを形成し始めます。

 

エディプスコンプレックスを克服することによって生み出されるのは、無意識と超自我です。

 

  • 無意識とは幼児期に子供が自分の禁じられた欲求を抑圧した場所である。
  • 超自我とは父親による「禁止」を内在化した場所である。

 

こちらの図をご覧ください。

 

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Mutsuko Takahashi

 

超自我は、フロイトの精神構造モデルで定義されている心理的装置の3つの層のうちの一つです。超自我は自我の監視役のようなもので道徳的な役割を果たしています。自我はイドの欲求と超自我の間を仲介する組織的で現実的な部分です。イドは本能的衝動などの組織立っていない要素の集合体です。

 

意識と無意識

 エディプス的な一連のプロセスによって出現する自己の「主体」は、意識と無意識の間で不安定に引き裂かれた、分裂した「主体」であり、無意識の記憶は常によみがえって主体を脅かすことができます。

 

それでは、次にこちらの図を見てください。

 

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Mutsuko Takahashi

これはフロイトの意識と無意識のイメージです。線があって、その線の上に意識的領域が存在し、無意識の領域がその下にあります。

 

そのようなイメージで意識と無意識を捉えてみると、無意識の領域は境界線によって抑圧されている見なすことができます。しかし、無意識は常に抑圧されているわけではありません。無意識は、時々境界線を破り、意識的領域に侵入してきます。この現象は主に3つに分類することが出来ます。1)夢、2)しくじり行為、3)神経症、という症状によって無意識は現れます。

 

無意識の顕在化:夢・しくじり行為・神経症

それでは、無意識が意識的領域に侵入してきてしまったことによって起こる3つの症状を詳しく見ていきましょう。

 

1) 夢

はじめに、「夢」について説明します。キーワードは「圧縮」と「置き換え」です。フロイト理論の「夢」は本質的に、無意識の願望の象徴的な成就と見なすことができます。願望成就の過程において、夢からもたらされた映像とメッセージはまとめられて一連の物語的な提示へと「圧縮」されます。あるいは、ある事柄の意味をそれに関連した別の事柄へと「置き換え」ます。

 

この絶え間ない意味の「圧縮」と「置き換え」は言語学者ロマン・ヤコブソンが人間の言語の2つの主要な機能として識別したメタファーメトニミーに対応すると考えることが可能かと思います。このことは精神分析学理論を文学に応用するのにとても重要です。なぜなら心理学の「圧縮」と「置き換え」が、言語学の「メタファー」と「メトニミー」に深く関わっているからです。

 

例えば、メタファーは「圧縮」に対応するし、メトニミーは「置き換え」に対応します。この理由から、私は「夢」の作業は、「語り」の作業に似ていると考えています。

 

*今わからないと思うことがあっても心配しないでください。いろいろ記事を書いていきますので、私のブログを読んでいるうちに、だんだんわかってくるようになると思います。また、そうなるようにブログ記事を書いていくつもりでいます。

 

メタファーというのは、ある意味をまとめて「圧縮」することとして、比喩的なものであると定義できます。メトニミーはあるものを別のものに「置き換え」たものであると定義できます。

 

文学作品を理解するためにも重要なので、メタファーとメトニミーを簡単に説明したいと思います。

 

まずはメタファーについてです。例えば、「田中先生は辞書です」と言った場合、田中先生が本当に辞書なのではなく、辞書に喩えられるほど物知りであるという意味の「圧縮」であり、それは比喩です。

 

次にメトニミーについてです。「私はニューヨークの五番街が好きです」と言った場合、私は「五番街」という道路自体を意味しているのではありません。五番街といえば高級店が立ち並ぶショッピングの代表的な場所であり、こういった場所で買い物をするのが好きだという意味に対する「置き換え」です。これらの例は明らかに理解可能だと思います。

 

ところが、「マリコさんは花です」というような場合はどうでしょう!?もし私が、マリコさんは花のように美しいという意味で言ったのなら、それは比喩なので意味の「圧縮」です。しかしマリコさんのご両親が花屋さんを経営しているので私がマリコさんを花呼ばわりしたのならば、それは「置き換え」です。そのため、この場合はマリコさんの経歴を知らずに、メタファーなのかメトニミーなのかを区別するのは困難です。

 

メタファーとメトニミーの概念について、フランスの精神分析ジャック・ラカンは「無意識は言語のように構成されている」とコメントしました。ラカンは夢の登場人物が、メタファー的な人物であり、メトニミー的な人物でもあると考え、それゆえに彼は構造主義的な観点から、フロイトの夢の理論を再解釈しようと努めました。

 

2) しくじり行為

第二に、「しくじり行為」についてです。しくじり行為というのは主に「言い間違え」のことです。口が滑って言い間違えてしまう現象です。その他の失錯行為である「記憶違い」、「読み違え」なども「しくじり行為」に分類されます。

 

ちょっと私の個人的な考えを挟みます。私は「冗談」があまり好きではないんですね。楽しい冗談は良いのですが、冗談だとしても人をけなすようなことを言う人とはまず距離を置きます。付き合わないし会話もしないし目も合わせません。あれは、私が考えるに、無意識的に本音ですよ。「冗談」という偽装をしているだけ。それでは理論に戻ります。

 

3) 神経症

第三に、「神経症」についてです。我々はみな、ある種の否定し得ない無意識の欲求を持っているわけですが、そのような欲求のはけ口が実質的にないような状況下において、欲求は無意識の領域から出ることを強いられているにもかかわらず、自我(エゴ)がそれを防御的に阻止するために、行き場をなくします。出ようとしてるのに出させない。この行き詰った内的葛藤の結果が「神経症」です。

 

神経症の症状は以下の通りです。

  • 強迫観念 (路上のすべての電信柱に手で触ってみないと気が済まない)
  • ヒステリー (自己暗示によって生じたり消えたりし、肉体的には悪いところがないのにもかかわらず運動麻痺や知覚麻痺を伴う)
  • 恐怖症 (公共の場や特定の動物に対する恐怖心を抱いている)

 

これらの神経症の症状の背後にある精神分析は、未解決の内的葛藤が個人の初期の発達段階にまで起源をたどることを見定めます。またそのような神経症の原因は幼児のエディプス的な時期に集中している可能性が高いといえます。実際、フロイトはエディプスコンプレックスを「神経症の核」と呼んでいるほどです。

 

 

 

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