論文執筆に行き詰る原因は何でしょう!?最もよく言われるのは精神的理由だと言われています。
読者の存在
論文執筆が行き詰まってしまう原因の一つとして、読者の存在を意識してしまうということが一般的に挙げられます。「これを書いたら読者がどう思うだろうか!?」というのを意識しすぎると、執筆が行き詰まる原因になりうると考えられています。
しかし、そうとも言い切れない場合もあります。例えば、私は学部の卒論に行き詰った時に、論文指導の先生が「これを誰かが読むことを意識してください。あなたの論文を読むのを楽しみにしていますよ。」と言ってくれたアドバイスから、再び執筆できるようになりました。
「読者の存在」の意識の問題が難しいのは、読者の存在が論文執筆のブロックにもなりうるし、同時に執筆が捗る要素にもなりうるという相反する要素を包含しているからだと思います。
想定上の読者
「誰が読者なのか」によって、書く内容が変わってきます。執筆者にとって、それだけ読者の存在は執筆に影響がでるほど大きいです。
例えば、誰も見ない自分だけの日記。本当に誰も見ない場合と、誰かが盗み見るかもしれない場合。学生向けに書く場合と教授に見せるために書く場合。自分と同じ専攻分野の人に書く場合と、異なる専攻分野の人に書く場合、等々。
執筆の向こう側にいる見えない読者の存在によって、執筆内容がまるで変ってくることを考えると、いったいその論文は自分のためのものなのか、他人のためのものなのかわからなくなってきてしまします。
オーナーシップを再認識する
執筆者と想定上の読者との間の不安定な要素を仲裁するのは、オーナーシップ (Ownership)という考え方です。つまり、その論文の所有権が誰に帰属するかという問題です。オーナーシップを再認識することで、不安定な要素が取り除かれます。
なぜ、オーナーシップを再認識することが大事かというと、結局は「この論文は自分のものだ」という強い所有意識を持つことで、「これを読んだら読者がどう思うか!?」という不安要素に惑わされないようになるからです。
それでも読者の存在も大事
オーナーシップの再認識は、読者の存在に惑わされて迷路に迷い込んだ執筆者を、元の場所に戻してくれる役割を果たすかもしれませんが、それでもやはり読者の存在は大事だと思います。なぜなら、読者があってこそ、書いたものが意味を成すからです。自分の考えが自分の外に出なかったらそれは単に一個人の思考でしかありませんが、自分の外に出て他人に読まれることにより思考が理論化します。
オーナシップと読者の存在はバランスが難しいですが、論文の場合は「これを誰かが読む」ということを意識しつつ、ゆるぎないオーナーシップを持つことが大事かと思います。例えば、教授からアドバイスをもらって、同意できる内容ならば取り入れれば良いですが、どんなに優れたアドバイスでも自分が同意できない内容ならば取り入れるべきではない。自分の納得できない内容を取り入れたらば、もはや自分のものではなくなってしまいます。
文学作品の場合は話は別
論文に関しては、執筆者のオーナーシップが優先事項ですが、文学作品の場合はまったく話が別で、読者の方がむしろ大事になってきます。読者の存在なくして作品は存在しないも同然です。作者は読者が作り上げた産物だという考え方もあるくらいです。作品を読んで、読者が作者像を作り上げるからです。