Dr. Mutsuko Takahashi BLOG

ニューヨーク在住、英文学博士・個人投資家の高橋睦子【Mutsuko Takahashi】です。ブログへのご訪問ありがとうございます。

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価値の交換:『日はまた昇る』と『グレートギャツビー』

価値の交換という文脈で読むことが出来る作品として、ヘミングウェイの『日はまた昇る』(1926)と『グレートギャツビー』(1925) が挙げられます。

 

 

ヘミングウェイの主人公ジェイク

日はまた昇る』の主人公でありナレーターでもあるジェイク・バーンは、お金の話ばかりします。特に「何にいくら払ったか」という支払いの決済に重点を置いているのが作品中目立ちます。

 

作品の第8章で、ジェイクはきっぱりと、世界のすべてが「価値の交換」であると述べています。ジェイクにとって、人生を楽しむことは、お金を支払うことで何が得られるか、支払ったお金と同等の価値のものとは何かを学ぶことだと信じています。そのため、彼は常に支払ったお金と同等の価値を持つものとを交換してきました。

 

ジェイクのように、すべてが「価値の交換」であるという考えは、1920年代のジャズ時代の米国の経済発展と深く関わっています。米国の経済成長による大量生産と大量消費の時代でした。このような社会経済的背景の中で、お金を使って物を手に入れることがアメリカのイデオロギーアイデンティティを生み出したのは当然のことでした。

 

 また、彼がフランスにいるアメリカ人であることも特筆すべきことです。自国を離れて、外国でアイデンティティの探求をする精神分析的な文脈だけでなく、通貨という経済的な文脈で作品を読むことも可能です。当時、急速な経済成長を遂げていたアメリカで通貨を費やすよりも、自国の通貨より弱い国で費やす方が、より一層ここぞとばかりに贅沢三昧をして消費の欲求を発散するのにはもってこいの環境だからです。

 

フィッツジェラルドの主人公ギャツビー

フィッツジェラルドの『グレートギャツビー』もまた、価値の交換の観点からも読むことができます。この作品において、「お金」は資本主義社会の武器として扱われていますが、価値の交換の観点において、ギャツビーとトムとでは根本的に異なっています。

 

ギャツビーはデイジーを取り戻すために、無一文から富を築き上げます。ギャツビーにとってお金はデイジーに適した財政力を証明するものです。一方、トムにとってはデイジーを所有していること自体が彼の財産の一部としての提示であるということです。

 

つまり、デイジーは二人の男性の富の象徴として表現することができますが、彼女の象徴的な側面はギャツビーとトムの間で異なります。

 

トムがデイジーにプレゼントした真珠のネックレスは永続的な価値を持っていますが、ギャツビーのシャツは通貨の流動性を象徴する大量消費の産物です。多種多様なシャツが投げられているのを見て、デイジーは涙を流します。

 

 

 

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